園長だより vol . 216 (2020.1.31)
2020年01月31日 / 園長だより藤幼稚園のご父母のみなさまへ
早春を告げるネコヤナギの花が南駐車場で咲いています。ネコヤナギの名前は、花が猫のしっぽのようにふわふわとした毛に由来するとのこと。また、猫のイメージで「自由」とか「思いのまま」が花言葉です。早春を告げる花とは違い、まだまだ猫は、温かい部屋のこたつで丸くなり…という感じですよね。あ~ぁ、猫になりたい!?
今、子どもたちは、劇発表会に向けて練習に励んでいます。演じる劇のお話を理解し、台詞を憶え、出番や立ち位置を教えてもらい、やがて練習を積んでいくうちに、この台詞はどんな風に言ったらいいのか?伝わるのか?を考えながら、人前で表現することを体験し、自信を付けていきます。当然、最初から上手く行くなんてありません。人の前に出ることが恥ずかしかったり、台詞は憶えているんですが声が小さかったり、逆に大きな声を発して、照れ隠ししたりと子どもたちの様々な今の育ちを感じることが出来ます。そんな劇発表会、どうぞご家族みなさんでお越し下さい。
毎年お伝えしますが、“演じるのは子ども、応援することしかできないのが親”まさしく、劇発表会は、親子の立ち位置の縮図であり、木の上に立って見ると書く“親”という漢字を体感できる場面だと思います。どうぞ応援してあげて下さい。(ヒヤヒヤ、ハラハラ、ドキドキ…かもしれませんが⁉)
≪日本文化の伝承≫
もうすぐ、節分です。子どもたちは、一所懸命に思いをめぐらして鬼のお面や角箱をつくっています。角の形や大きさ、色にそれぞれの怖い鬼?というイメージを膨らませて工夫しています。可愛かったり、怖かったり、笑っちゃうような様々なお面をかぶり、2月3日の節分には、豆まきをしたり、鬼になったり、豆を食べて節分行事を楽しみます。
いつも感じることですが、節分に限らず年間を通じて、日本の幼稚園や保育園では昔から日本の文化、伝統、行事、風習等々を大切にして、子どもたちが各行事に関わり、体験しながら育っています。全国的にも、各地域でそれぞれの伝統行事が行われ、子どもたちはそのいわれ、しきたり、言い伝え等々に触れながら成長しているものと思います。でも、小学校以上では、その行事の数も少なくなり、塾やスポーツで時間も取れず、地域の行事にも触れることなく成長していくことが間々あるものと想像します。また、昔と違い、都市化した地域では、地域そのものの存在が薄くなったり、伝える人がいなくなったりで季節の行事は、和菓子屋さんのショーケースの中に感じることが精いっぱいという今日この頃です。
そんな点から、おそらく、「幼稚園こそ、日本文化を伝承する最後の砦」とも言えるのではないか?と思います。これからも、未来を生きる子どもたちの幅広い知識と経験に役立ち、さらに豊かな文化体験を基礎にした思考や創造性を培って行きたいと考えています。
豆まきについて、おもしろい記事を見つけましたので、ご紹介させて頂きます。
【開運#年中行事はじめました 井垣利英著】より。
① 節分の豆まきは、春を迎えるためのステキな魔法
昔はエアコンなどなかったので、冬の寒さをしのぐのは大変でした。あるのは囲炉裏くらいのものです。だから戸や窓はできるだけ閉め切って、家の中に凍えそうな冷たい外気が入るのを防ごうとします。だから冬というのは、すごく暗く、寂しく、陰気なイメージでした。陽気な春を迎えるには、溜まってしまった陰気なものを家のなかから追い出してしまわないといけません。陰気でいっぱいだと陽気の入りこむ余地がないでしょう?豆をまく儀式は「迎春呪術(げいしゅんじゅじゅつ)」だといわれます。ひらたく言うと「春を迎えるためのステキな魔法」です。
「鬼は外~、福は内~」と豆をまく節分の行事は、昔の人たちにとっては、冬の「陰」を追い出して「陽」に変えて春を招く大事な行事だったのです。
② 節分の豆は硬くて炒ったものが必須
豆は鬼を追い払うための武器です。だから豆は硬くないとダメなのです。煮豆ではやわらかすぎて役に立ちません。豆まきには、炒った硬い豆を使います。昔の人たちは語呂合わせや当て字の達人です。縁起かつぎが大好きなのです。豆にもこんな当て字をしました。「魔目」→豆で「鬼の目を打つ」という意味。「魔滅」→「魔を滅する」、つまり鬼をやっつけるという意味です。また、節分の豆まきに使う豆は、どうしても炒ったものでないといけません。生の豆は、鬼にぶつけたあとに芽が出たりして不吉と考えられました。そして何より「豆を炒る」の炒るを「射る」にあてて、「矢を射る」ことにかけたのです。正式には豆まきは、二月三日の節分の夜に行います。節分の豆は、「新春もマメ(豆)に元気に過ごせますように」と願い、年齢の数を食べるようにといわれています。 よく「自分の歳よりも一個多く食べるように」ともいいますが、昔は立春に一つ歳をとると考えられていたからです。豆を食べて、一年の健康と幸せを願いましょう。節分の豆は、東北や北海道では落花生をまくとのことです。
≪武道の可能性について≫
先日、思いもかけず日本武道館の広報室様から表題の原稿依頼がありまして、以下に、その最初の一端をお伝えさせて頂きます。ご笑覧頂ければうれしいです。
武道とのご縁が無かった人生を送っている私が、武道を語ることは甚だおこがましい感じがしましたが、よくよく考えると高校時代に授業で剣道をしたこと、空手や合気道をしている友人がいること、ましてや、現在幼稚園では、有段者である男性教諭がキッズ空手と称して、芝生の園庭や屋根の上で子どもたちと空手練習をしていること、さらに、別に週1回の空手教室に場所をお貸ししていること等々、武道と関係ないどころか、とても武道が身近にある存在だと改めて気づかされました。
また、23年前、近所のアメリカ村に住んでいる大きな体のアメリカ人の方が訪れ、『空手を子どもたちに教えてみたい』とお願いされ、私も漠然と子どもの育ちにいいのではないかと思って、部屋を貸し、空手教室が始まりました。それは琉球空手で、教える先生がアメリカ人、指導を受けている子どもが全員日本人という光景で、とても不思議な時間に迷い込んだような気分がしたのを憶えています。さらに、子どもの前で演じた鎌やヌンチャクを使っての稽古にビックリした記憶もあります。その後、その方は帰国しましたが、空手教室に通わせていたお父さん二人が、教室を受け継ぎ、今でも毎週稽古をされています。今では、子どもを送迎していたお母さんも、道着を着て一緒に稽古に励んでいます。
皆さん、武道である空手に子どもの育ちの大切なところを感じているからこそ、23年も継続しているものと思います。勝負だけではない、武道の力、子どもの育ちを空手に託す親の思い、子どもたちに伝えたい大切な日本人の心を感じています。
園長だより vol . 216 (2020.1.31)